ころんです!
子供を今後どのように育てていくか。。。
これからの進学先、就職先、人生をどうしようか。。。
これはどうしても生きてたら悩むことですよね。
そんな時、自分はこうやって生きてきたからと、サンプルを自分だけで考えてしまうのは勿体無いない!!
なぜなら、この世の中には人の数だけの人生があります。そのなかで自分の人生を振り返ってこれからの人生を考えるのは、今までの自分からしか学習できないので、新しい人生に繋がりませんよね。
そこで、私、ころんの人生も参考にしてみてください!!
参考にできるの?
そう思われる方もいると思います。
こういうころんも、
中学では学力トップ3、学級委員長、高校学力トップ2、高校総体県3位、最年少2級建築士資格取得、エンジニア転職を果たすという実績を持っています。
また、中学では部活で3年間1勝もできない。高校最後に燃え尽き症候群。社会人で、うつ状態、自律神経失調症という経験もあります。
胸を張っていえることもありますが、苦しい経験も多数経験してきたころん。
そんなころんの人生を1つあなたの人生に生かしてもらえたら嬉しいです!
この記事でわかること
- 社会人までどんなできごとがあるのか
- 他の人はどんなことをかんがえているのか
ころん熊本で生まれる
そもそもころんがどんなひとかというと
- 2001年6月生まれ
- 熊本県出身
- 田舎育ち
- 姉と弟の3人兄弟
- 母子家庭
という生まれです。
3歳から保育園に入園し、1つの保育園で育ちました。
1人で遊ぶことが好きでよくブロック遊びをしていました。
このときはまだ、よく笑いよく話すころんででした
少人数で夢のある小学校生活
小学校は地元の公立の小学校でした。
クラスは田舎なので1学年1クラス。33人ととても少ないものでした。
3、4年生のころに親が離婚することがあったのですが、それ以外は順風満帆に過ごしていました。
学校生活
小学校での6年間は充実してました。
入学当初は、3つ上の姉がいたもので、先輩方にとても仲良くしていただきましたね。
子供を生まれる方はやっぱり2人目、3人目の方が生きやすいと思います。
友達も他のもう1つの園からの子も入学して、孤立することなく仲良く友達と遊んでいました。
1〜3年生までは部活もなく、勉強もそこそこしていました。
通信教育のチャレンジを受講してましたね。赤ペン先生などが懐かしいです。今思うとチャレンジはとてもやっていて良かったと感じています。
自分で勉強する習慣もつきましたし、なにより、付録で学習意欲が沸きました。
学習の成績もそこまで悪くなく、通知表のA判定が多かったのを覚えています。
1年から3年の頃まで、ピアノ教室とスイミングスクールに通っていました。
今ではもう泳いだり、ピアノも弾けませんがいい経験だったと思います。
1つアドバイスをすると、ピアノ教室はコンクール重視のところではなく、楽しく自分の弾きたい音楽を弾かせてくれるところをお勧めします。ころんの通っていたところはコンクール重視であまり楽しさを得られず、すぐに辞めてしまいました。
楽しく弾けるところに行っていれば今頃ピアノも楽しく弾けていたのではと思います。
高学年になると1年生の面倒を見たりしてとても楽しかったのを覚えています。
小学校中学年の時には、親の離婚もありました。
父親が、借金を背負ったり、DVをしていたのがありますね。
あのころは警察沙汰にもなったり、家庭裁判所で色々とありましたが、今ではとくに何も感じていません。
逆に別れたことで、お金の大事さをしれたりして、苦しい状況がバネになったりもしています。
今、DVなどが原因で困っているかた、金銭的にも問題があって子供に苦労させるかもしれないと思われているかもしれませんが、無理に限界まで耐えることはないと思います。
コロン自身、裕福ではなくてとても悔しい思い出がありますが、それを子供は将来バネとして活かすことができるのであまり思い詰めなくて大丈夫ですよ。
6年生にもなると学級委員長?もやってた記憶があります。
その頃から、人前に出るのが好きになってきました。
人の笑いを取るのが好きだったんですね。
部活動
4年生からは部活動も始まりました。
最初は何の部活の入部するかとても迷っていました。
部活に入ってついていけるのか、とても心配だったんですね。
顧問の先生からの推しもあり、サッカー部に入部することにしました。
今思うと、ここでサッカー部に入部して良かったなと思います。
今現在お子さんがいる方も参考になれば嬉しいのですが、やはり最初はチームプレーも経験することがいいと思います。仲間と喧嘩したり、意地を張ったり、協力したり、相手を思いやる心がついたと思います。
のちに高校で個人プレーの弓道部に入学するのですが、個人プレーの弓道ではあまりチームプレーは学べませんでした。そのような違いもわかるので、チームプレー、個人プレーのどちらも経験できるものをお勧めします!
入部すると姉も元々サッカー部だったため姉の後輩さんが、ころんと仲良くしてもらったのを覚えています。
しかし、入部しても足の怪我が続きとても苦しんでいました。
なぜ自分だけ怪我でサッカーができないのだろうか。。。
そう悩む日々が続きました。
そんな中でも人10倍声を出し、練習に取り組んでいました。
鬱憤を晴らしていたのかもしれませんね。
そのなかで、チームはどんどん明るくなっていました。
最後は、人数も少なかったため、レギュラーとして活躍して、大会で結果を残すこともそこそこありました。
懐かしいですね!
将来の夢
小学生の将来の夢となると色々ありますよね。
ケーキ屋さん、プロ野球選手などなど。。。
そんな中でもころんは、小学生時代に4つもの職業を志していました。
それは
- 漁師
- 獣医師
- 弁護士
- 海上自衛隊
この4つの職業を志していました。
漁師は、祖父が漁師とみかん農家だったためと、魚釣りが好きだったためですね
獣医師は、ゴールデンレトリバーをそのころ飼っておりとても動物が好きだったからですね
弁護士は給料が高いからという理由でした。
最後の海上自衛隊は、親の勧めですね。給料がよく、安定しているからというものでした。
自分が海や魚が好きだったというのもあるのですが、、、
それがころんの夢でした。
部活で悔しい。来る高校受験。中学校時代
小学校を卒業したら、地元の持ち上がりで中学校に入学しました。
ころん自身、中学時代が一番楽しかったなと思います。
長い人で10年以上一緒にいた仲間との最後の時間ですもんね。
もしこれから中学校という方がいたら、幼馴染とも最後の時間ですので精一杯楽しんでくださいね!
中学校では、テストの点数で順位が出たり、高校受験という大イベントがあったりといろんなイベントがありますよね。将来の夢もより具体的に考えないといけません。
恋愛もありますがころん、彼女はできたことはありませんでしたのでここでは書かないようにしておきます。
さて、ころんはどんな中学校時代を過ごしたのでしょうか。
学校生活
中学校時代では、毎回のテストで点数で順位づけされるのが大きかったですね。。。
いまでも、友達を点数勝負でライバル視していたことも鮮明に覚えています。
ころんの学習は、チャレンジに行っていたおかげか、自主学習を苦しむことなくできました。その結果、テスト順位も5位をキープしたまま最高では共通テストで3位の成績も出ました。
塾に行くのが早かったわけでもなく、中学2年生で週1の2時間程度の英数の塾に入塾しました。
通った塾は姉も通っていた塾で、能力開発センターと呼ばれる塾でした。いわゆる「能開」ですね。
この塾は、大学受験で有名な、東進衛生予備校の中学校バージョンでした。
もし、子供をどこの塾に入塾させるか、いつから入塾させるか迷われている方は、能開お勧めです。
時期も3年生になってからでいいように感じました。
子供的にも、勉強に力を入れたいとなるのは3年生頃なので、やる気もあり、コスパがいいです。
無理やり、塾に通わせても勉強しないので、お金の無駄です。
塾の先生も、とても教えるのが上手でした。そのおかげで、大体学年順位5位以内をキープできました。
部活が終わってからは、能開の高校受験コースに入塾して、毎日学校が終わったら塾に行き夜の10時半まで勉強してました。
塾が家から車で30程度の場所にあったので送り迎えしてくれた家族には感謝ですね。
学習の際は、自分からよく質問してました。わかるまで教えてくれるのも能開のいいところだと思います。
高校受験では、模試で進学校志望の2位になるほどでした。その頃は、地元の高専を目指していました。ですが、あとでも書きますが、部活動で一勝もできなかったので、その克服をしたく、部活の強く県内で1番の偏差値の工業高校を志望しました。
受験したところ、前期入試で倍率4.6倍に合格することができました。
中学3年生のころに学級委員長をしていたのが生きたのかもしれません。
ころん自身、いい高校に受かりたいために学級委員長をしたのもありますが、クラスをもっと良くしたいというのもありました。
田舎の学校あるあるかもしれませんが、生徒の仲が良いものの、授業中などに積極的な生徒はそうそういません。発表の時も静かです。そんなクラスをもっと積極的にしたいと思い、学級委員長を志しました。
授業中には自分から、発表などをすることなど気を付けてました。
その経験が今でも社会人として、会議で発表できたりしていることに役立っているのかもしれません。
何が言いたいかというと、
「やれることは、どんどんやっていったほうが絶対に良い!!!」
ということです。
社会人になったら行動したものがちです。でも社会だと学校よりも動きずらいです。
そのため、小さい頃から、行動することで将来動けるようになります。
生活面では、この頃から哲学書やビジネス本にハマりました。
やっぱり、将来稼ぎたかったんでしょうね。
小さい頃から、このような本を読んでおくと、現在でも読む習慣がつくのでお勧めです。
思春期でもあり、家族とはほとんど話さなくなりました。
今思うと話しておいたら良かったと思います。
話さないようになると、家族に対して、てれやすくなってしまい、自己開示が難しくなってしまいます。
今思春期のお子さんがいらっしゃる方は、積極的に子供と話してあげてください。振り向いてくれなくても、いつか振り向いてくれるはずです。
これから中学校!という方は、テスト順位がでたり、恋愛もあったりと学校生活は楽しいので、わくわくしててもいいかもしれませんね!
部活動
ころんは小学校と同じく、サッカー部に入部しました。
中学校では足をよく怪我してしまい、試合にもあまり出られませんでした。
その鬱憤を、勉強に当てたり、家族に当てたりしてしまっていました。
今では申し訳ないですね。
勉強に集中できたのは偉いですがね。
試合では、公式戦1勝もできずとても苦しく、悔しい思い出がありました。
どれだけ頑張っても、怪我をして、練習できなくなり、復活したら一番に部活に行き、自主練をしていました。
そんなこともあり、高校では、足の怪我のないかつ、個人プレーがやってみたかったので、弓道部に入部することにしました。
学校生活編で書いた高専は、部活にあまり集中できなかったので、工業高校に入学したっていうのに繋がってきますね。
そんなこんなで、サッカー部活動を終えました。
チームプレーを学べたりできたので、良い経験になったかなと今では思います。
将来の夢
高校受験となると将来の夢を見据えた選択をしていかないといけませんよね。
現在、将来の夢で迷っている人も参考にしていただけたら嬉しいです。
中学時代のころんの夢は、建築士になることでした。
なぜ建築士かというと、美術の授業で家を作ったことが原因でした。
美術の授業では発泡スチレンボードを使って写真のような家を作成しました。
この家を作る作業が面白かったんですよね。
それで、ころんも建築に興味が出てきました。
そうして、工業高校建築科へ進学を志しました。
今、エンジニアに転職して思うと、なんでも自分がなりたければ良かったんだと思います。
やってみたいことをやったら経験ができます。
その経験が自分のもともとやりたいことなのであれば、後悔することはありません。
また、やってみて辞めることもできます。
今、進学や、将来の夢をどうしようか悩んでいる人も、なりたいものになるのが一番だと思います。
自分には難しいとか考えても、やってみないとわかりません。
やりたいもの。ときめくものに向けて一歩踏み出してみてください!
社会人の準備。文武両道の高校時代
熊本県内の工業高校に入学して、建築について学びました。
高校時代は文武両道をしっかりとやれたなと思います。
就職のために、資格を10個以上取ったり、学科順位2位をずっとキープしたり、弓道で県3位という成績を残したり、燃え尽き症候群になったりと3年でしたがとても濃い生活でした。
学校生活
高校での思い出といったら「資格取得。勉強。そして、体育会系の学校。」という思い出ですね。
工業高校なので資格取得はもちろんやっていました。
取得した資格をあげると以下の通りです。
・2017年10月 基礎製図検定
・2017年11月 リスニング英語検定2級
・2017年12月 建設業経理事務士検定試験3級
・2017年12月 危険物取扱者丙種
・2018年 4月 弓道初段
・2018年 6月 危険物取扱者乙種第4類
・2018年 8月 小型車両系建設機械運転資格
・2018年11月 計算技術検定2級
・2019年 9月 建築大工技能士資格3級
・2020年 2月 普通自動車運転免許
合計10個の資格を取得しました。
これも就職試験のためでした。
良い会社、今後の人生を決める会社を高校卒業して選ぶんだととてもプレッシャーになっていたので、その反動で取得したんだと思います。
転職した今思うとこの頃に資格取得しておいて良かったと思います。
就職活動では、資格をたくさん持っていることで、自分で学習できる人として評価してもらい、1発で転職を成功させることができました。
勉強面では、中学校時代に能開に通っていたこともあり、東進衛生予備校の英語数学の講座を受けていました。
映像授業なので自分のペースで学習を進めることができ、学校の勉強の予習をしていました。
いまでも、経済の学習などするのですが、この時の勉強法がいまでも役に立っています。
もし、お子さんに少しでも勉強して欲しいのであれば東進衛生予備校をお勧めしますよ。
日本トップレベルの授業が、映像で聴けるのでとても良い塾だと思っています。
そのおかげもあり、成績優秀賞を3年連続で受賞し、会社を選択するときは、成績の良い人から優先的に選択できるので、ころんは第一志望に応募することができました。
今振り返ると思うのですが、無理に高専にいって順位の低くなるのではなく、工業高校でトップレベルの成績を残して、就職先を選択した方が優位に立てると思いました。
高専か工業高校か迷っている方がいれは参考にしてみてください。
友人関係もこの頃の友人といまでも話す機会は多いですね。
やっぱり、仕事も同じなので話しやすいです。
高校時代の友達をだいじにしながらやっていくのも1つあります。
部活動
高校では、弓道部に入部しました。
理由は、カッコよかったから。個人プレーがしたかったから。足が弱かったからなどなど。
工業高校でもあるのでやはり、先輩が優しいながらもとても怖かったです。
当時は、シメと呼ばれるものがあり、先輩方に拷問されていました。笑笑
経験も積むと、イップス(心理的要因で一定の動作ができなくなること)である「もたれ」にかかってしまい、1年間的に矢が当たらなくなるというものも体験しました。
周りに同じ境遇の人もおらず、とても苦しかったです。
的中率も下がり以下のような感じでした。
そのときは、県内の道場を巡って、同じ境遇の人を探しました。出会った人は、全国一位の経験もある方でした。
もたれの克服法はいかにも簡単でした。
方法は、会の時に無理やり上半身を的方向へ押し出して上半身の勢いで矢を離すというものでした。
もし、もたれで悩まれている方がいれば克服法をレクチャーするのでお問合せから連絡してください!
そんなこんなでイップスを克服し、最終的にはレギュラーになり、公式戦でも勝利し、高校総体では、県3位の実績を残せました。
高校の部活で実績を残せたことは、就職活動のときや、転職活動の時期でもよく使えましたので、学生時代にしっかりと頑張っておくことが大事ですね。
将来の夢
高校の醍醐味といえば就職活動ですよね。
結論をいうと、ころんは東京にあるスーパーゼネコンの子会社に施工管理として入社しました。
建築士では?と思った方もいると思いますが、いろいろ悩んだ結果が施工管理でした。
建築士をやめたのは、理由があります。
1つは、施工管理をした後でもなれると思ったからです。
実際、施工管理をしてから設計の分野に移る人も多いです。
2つ目は給料が施工管理の方が多いからです。やっぱり仕事についたら稼ぎたいですよね。じぶんだったらお金が欲しいからどれだけでも働ける。そう考えていました。
また、建築担当の公務員も考えていました。理由は、先生から、「図面を確認して、ハンコを押すだけの仕事だよ」といわれて楽そうだな!と思ったからです。
しかし、公務員の道も、施工管理やった後でもできるからという理由でやめました。
この選択は自分でもよかったなと思っています。
なぜなら、入社した会社が施工管理だけでなく、設計もやっており色々な経験を積めたからです。
これから、どんな会社に入ろうかと悩んでいる方には、色々な仕事、部署がある会社をお薦めします。
理由は、仕事というのは実際やってみないとわかりません。そのため、1つの仕事が嫌になった場合、転職ではなく部署異動ということで対応できるからです。
実際コロンも施工管理の部署に行った後、転職せずに部署異動で設計職になりました。
学校に来ていた求人を全て調べ1つの会社に決めました。
そして、就職試験では1発で合格をいただき入社することができました。
上京した社会人時代
ついに社会人時代突入ですね。
熊本から上京してからの出来事を言うと、施工管理者、2級建築士、エンジニアという仕事についたり。
建設業界で鬱状態、統合失調感情障害を経験。
彼女との生活の始まり
退職と転職
仲間との別れ
社長の人との出会い
マルチとの出会い
などなど3年間で様々なことがありました。
残業。残業。残業。施工管理時代
スーパーゼネコンの子会社に就職したころんは、始めは施工管理職に従事しました。
3ヶ月の研修に参加し、その後現場に就任。
6人集合!自粛研修の3ヶ月間
大企業の子会社でもあったため、研修期間が長いのはとても良いなと思っていました。
当時は、新型コロナウイルスが流行した2020年でした。そのため研修は寮で行われました。
最初は知り合いは1人もいませんでした。しかし、そんななか、新入社員の仲間もできました。
ころんは6人のグループで活動するようになりました。
3人は宮崎出身。2人は福島と広島出身でした。
上京すると、他県の友達ができるので上京のいいところですよね。
毎日、自粛でしたので寮で遊んでいました。
ころんの部屋が集会場となっていました。
ですが、ころんはその時、2級建築士の試験勉強をしていました。
毎日毎日、どうすれば友達が中に入ってこないようにできるか試行錯誤をしていました。
そんななかでも迫り来る同僚。
その戦いは研修期間中ずっと続きました。
そんなこと言いながら、とても楽しかったです。ほんとに。
高校卒業したら友達と別れるかもしれませんが、その分新しい出会いもあります。
そんなことを考えながら新天地に足を一歩踏み出すのもありなのではないでしょうか。
とりあえず、必死に建築士の試験勉強をしていました。
残業残業残業。施工管理時代
研修が終わると、実際に施工管理として従事することになりました。
初めて施工管理として配属された現場は、寮の近くにある千葉県の物流倉庫でした。
規模としては、8万平米の敷地に倉庫を建築するというものでした。
上司は4年次、5年次6年次の先輩、親会社に転籍した上司、そして老人、と所長がいました。
仕事自体は、とても楽しいこともありましたが、残業が80時間100時間ととても大変でした。
仕事では、地盤改良工事や仮設工事を担当し、鳶さんともよく仲良くしていただきました。
施工管理者としての楽しさは職人さんと話しながら仕事ができるところと、建物が実際に建っていくのを、実感できるところだと思います。
タバコは当時吸っていませんでしたが、喫煙所ではプライベートのくだらない話をしたり、仕事で笑わせてくれたりしてくれました。
ですが、残業をしていく中で
自分は仕事のために生まれてきたのだろうか。
休日のために自分はいきているのだろうか。
今後一生この生活をしていかないといけないのだろうか。
そんな考えが出てきました。そして、現場に就いて3ヶ月後、それを常にかんがえるようになり、毎日毎日残業地獄で鬱状態になってしまいました。
鬱状態というのは鬱なのですが、鬱病よりは軽いものです。
2ヶ月ほど休職し、新しい現場につきました。
2つ目の現場は東京都勝どきにある超高層マンションの建築に携わりました。
そこの現場では、高さ200mの建設に携わりました。
そこの現場では、組織がしっかりとしており、残業も45時間程度でした。
同期も1人いてとても楽しかったです。
勉強する時間もでき、当時まで頑張ってきた2級建築士の試験にも1発で合格することができました。
1年間というとても長い試験勉強でしたので、達成感はすごかったです。
昼食は事務所の売店のおばちゃんからよくしてもらいました。
そこでは、施工管理を残業がありながらも充実して過ごせました。
ですが、やはり、残業が多く、プライベートの時間がほとんどありませんでした。
そんな中、設計の部署の同僚の仕事は残業がそこまでないと聞き、設計の部署へ移りたいと申し出ました。その結果、うつを経験していたこともあったせいか直ぐに設計の部署に移ることができました。
うつとの戦い。設計職。転職を志す。
そうして、設計職に移りました。
新しい職場では、デスクワーク中心という業務が続きました。
設計職と施工管理職を比べると、施工管理職の方が大変でしたが、やりがいと楽しさがありました。
設計職は、ずっとパソコンと向き合っているので楽しさはありませんでした。
自分で書いたモデルが形になっていくのは楽しかったです。
そんな中、部長の下で仕事をするようになり、激務に襲われました。
毎週の納期に図面を間に合わせないといけなく、とても苦しかったのを覚えています。
仕事で困ったら60歳の部長に相談。ネチネチ言われとてもきつかったです。相談する相手も頼れる相手もおらず、設計職に移って3ヶ月でまた鬱状態になってしまいました。
その頃はとてもダメージがひどく3ヶ月休職しました。
体重も10キロ減りました。この頃に転職をしとけばよかったと思うのですが、高校から勉強してきたというのもあり、勿体無いという考えがあり、あまり転職を考えていませんでした。
しかし、きついことは忘れてしまい、普通に復職しました。
今思うと、たったの3年間の勉強くらいこれからの40年50年に比べたらどうってことないなと思います。とっとと転職しておいたらよかったと思います。
そんなこんなでその後2回の鬱状態と、一度の統合失調感情障害を体験しました。
自分に合っていない仕事をしていると、メンタル的にも悪くなってしまうので早めの判断が大事だと思います。
その頃にはもう、最初の6人グループの4人は退職して新しい道へ歩んでいました。
1人1人のわかれはとても悲しかったのを覚えています。
さまざまな関係。さまざまな都会人
仕事をしていく中で、都会でほかに知り合いが欲しいと思い、ツナゲートでパーティーに参加しました。そこではいろいろな経営者がいました。
そこでは良い人もいましたが、経営者の人もいました。
そこに参加していた人の多くはメンターという師匠を持っている人が多かったです。
師匠の多くは社長でした。色々な社長に会って話しましたが、みなさん真剣に自分と話してくれて言い方が多かったです。
他の考えや、新しい考えを持つ方とはなすのも良い経験になるなと思いました。
しかしその中には、マルチ的なセミナーに勧誘する人もおり、自分もそのセミナーの会員になってしまったことがありました。
そのセミナーに参加して一週間で脱退しましたが、1万円取られてしまいました。
その頃の自分は経営者になりたいと考えていました。そしてそのセミナーも、経営者を育成すると言うjものでした。場所は田町が多かったですね。
もし上京してきた方で、田町で経営者のセミナーなどの話が来た方は注意してみてください。
良いセミナーなのかは自分は単に人の自己啓発を聞くものでお金を取られていたので、悪いセミナーだったなと感じています。まあ、自分から参加したいと言う意思を見せたのも悪かったのですが。。。。
すみません。。。
そんな人もいる中いい人はいい人で、社長をメンターにして、日々自分をレベルアップさせるために努力している人もいました。
今後どうなりたいか、どんな人生にしたいかなどしっかりと考えていましたね。
たまに話すのですが、前向きな考えの人なので、タメになることもあります。
上京したら、できるだけ人と会ってみるのもいいのかもしれませんね。
アムウェイなどには注意が必要ですがね。。。
彼女との出会い
21年間一度も彼女ができたことのない自分は、アプリをしていましたね。
同僚と彼女できないかと話すことも多く、心から欲しかったみたいですね。
そんななか、いろんな女性に会いました。
そんななかでも、保育士の現彼女なのですが、1度目は彼女と動物園でデートして意気投合しました。
いや〜楽しかったですね笑笑
その次は恵比寿のなかよしという飲食店でデートし、その後告白して付き合いました。
付き合って二週間で彼女の家に住み込みました。
そして、半同棲生活をしていく中で、付き合って1年後プロポーズをしました。
結果も成功し、とても嬉しかったです。
エンジニアを志す。テックキャンプへ
彼女と付き合っていく中で、今後このまま仕事をしていていいのかと思うようになりました。
スキルで上がらない給料
昇進したら長くなる残業
ワークワークバランス
テレワークのできない業界
年老いた老人の機嫌取り(部長)
毎日ストレスの満員電車
このようなストレスを持ちながら仕事をするのは嫌だ。また、子育てに注力したい!やりたいこと副業もしたい!ということで転職を志しました。
そして、テックキャンプへ入学し、6ヶ月間の受講を修了して、エンジニアを募集している自社開発とSESをやっている会社を受け、見事1社で内定をいただきました。
会社は、渋谷のITの会社、昇給は年2回で、副業も可能。40人規模ながらも売上高もしっかりとある会社でした。
内定率は10%だったらしく嬉しかったのを覚えています。
そうして会社にも退職願を出し、2023年6月をもって退職し、7月から新しい会社に入社することになりました。
これから
そうしてこれからは、新しいエンジニアライフと副業と、結婚にむけていろいろと課題がありますが頑張っていこうと思います。
まとめ
ずらずらとコロンの人生22年分を書いてきましたが読んでいただきありがとうございました。
これから人生を進まれる方に言いたいことは、
将来をしっかりと考え、しっかりと行動すること です。
自分は、将来を考え、高校時代に資格取得をがんばり、転職、就職活動で役に立ちました。
しかし、鬱状態になってから転職をしなかったので、無駄な2年間ができてしまいました。
もっとはやく判断して転職しておけばよかったと思います。
また、あなたの人生がどうしたいか決める際に、この22歳ころんの人生を考える資料として1つ使っていただけたら嬉しいです。
これからはまだまだ自分のやりたい放題です。
自分のやりたいことを実現するためにお互い頑張っていきましょう!
この記事を読んでいただき本当にありがとうございました。
この部分もっと知りたいと言う方はぜひコメントしてください!
これからもころんの生活をよろしくお願いします!
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